読み納めの読書

 以前にも書いたことがありますが、少し進展しました。

 人生の残り時間が少なくなってきた。今になって気がついたことではないけれど、気づいてはいながらそれを無視し続けてきた。そんなこんなでノラクラしているうちにも時は経ち、健康的、頭脳的にもいろいろと自覚症状が現れはじめた。

 話は変わってこのわたくしめ、本だけはそれなりに読み続けてきた。そしてこれは性癖なのだろうが、本は買って読むものと決めていた。なので、読んだ本のほとんどは手元に残っている。残ってはいるが、読み終えたあと再び手に取った本は多くはない。手に取るだけでそうなのだから、読み返した本となるとほとんどない。読み終えた本は本棚に並び、なんとなくその背表紙を眺めるばかりである。もっとも、なんとなく背表紙を眺める行為はまんざら捨てたものではない。うまくは説明できないが、大いに価値のあることのようにも思われる。といっても、背表紙を眺めるだけではやはりもったいない。それではならじ、

 というわけで、これまで読んだ本の中から心に残った本を本をもう一度読んでみようと思い立った。いえ、思い立ったのはもう随分前のこと。だが、なかなか最初の一歩を踏み出せずにいた。というよりも、踏み出さずにいた。外因はなにもない。自分自身の問題である。

 ここで話は前に戻る、あと如何ほど生きていられるか、何冊の本を読めるか、いささか心許ない時期に差し掛かってきた。もはや先送りの余地はない。そろそろはじめたほうが良さそうだ。

 とやっとのことで重い腰をあげるにいたった。題して「読み納めの読書」、略して《読納》。これもまた、「終活」の一種であろうか。

 あまりきちんと計画を立てるようなことはしないほうがよさそうだが、大筋はこんな感じだろう。読むのは月に一冊程度。ということは年に十二冊。八年で九十六冊、ほぼ百冊になる。まあ、このあたりが限度だろう。百冊という数字にはなんら意味がない。読み直したい本が百冊もあるのか、あるいは百冊で収まるのか、さっぱりわからない。だからといって事前にリストアップするようなことはしない。一冊読み終えたら次を選択する。そんな、ゆるいやりかたで良いだろう。

 ということで、力まずに、軽快にやっていこう。先送り防止のためにここに開始宣言をする(ちょいと情けないが)。そして、最初の一冊を読みはじめた。なにごともはじめることが肝心。

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 そして《読納》の栄えある第一冊として読み直した本は、

 荻昌弘『男のだいどこ』(文芸春秋/初版第一刷1972)