なぜか退屈ではない

 近ごろ〝退屈〟感を味わうことが全くなくなっていることに気がついた。ゆゆしきことである。

 退屈と暇とは似ているようで若干ことなる。暇というのはなにもすることのない状態である。退屈というのは時間なり物事をもてあましている状態であろう。何もしていないときばかりでなく、何かをしていてもつまらなく感じ身が入らない状態でも退屈と感じる。退屈とは心の状態のひとつでもあろう。暇が絶対的な状況であるのに対して、退屈は相対的なものともいえる。

 とまあ、七面倒な定義はどうでもよいのだが、最近はどういうわけか退屈ではない。充実した毎日を送っているわけではないのにどうしてだろう?

 おそらくは、あれやこれや予定を消化することに明け暮れているからであろう。予定を消化することに熱中して、時間や状況をもてあましてはいないのだ。なので退屈は感じない。ということなのだろうが、これは良いことではない。

 予定を消化している限りでは、新しきことはなにも生まれない。予定したものが生まれるばかりである。あるいは、なにも生まれないかもしれない。

 予定を消化していてもよいのだが、そのことに対してつまならさ、もどかしさを抱くようになれば、退屈になるかもしれない。予定そのものをそんなものにしてしまえば良いのかも知れないが、それでは本末転倒であろう。

 それはともかく、退屈しのぎになにか新しいことに手を出そうとする。そんな状況になってみたいものである。どうすればなれるか。それがさっぱりわからない。