十五年前、十五年後

 以下、単なる偶然、思いつきにすぎませんが……

 ことしは二千十五年。当たり前だが、きりのよい二千年は十五年前になる。

 近ごろのできごとははほとんど年号と結びついていないのだが、二千年だけはちょっと別である。なにしろ、きりのよい数字だし、世の中でもひと騒ぎあった。

 世の中の騒ぎのひとつにコンピュータの問題があった。ハードやソフトによっては二千年を越えられないものもあった。各種データやカレンダーを西暦の下二桁で管理しているような場合は、二千年を越えることができない。九十九年のあとに零年となってしまうので前後関係の把握や期間の計算ができなくなってしまう。

 上二桁、たったの数字二桁を省略することもなかろうに、と思われるかもしれないが、当時のコンピュータの記憶容量は極めて貧弱だった。テラなどといった単位のなかった時代である。データベース設計ではデータ量を減らすことに苦心惨憺していた。

 といったように、あたかじめダメなことがわかっている場合もあるのだが、どうなるかわからないものもある。そのために、二千年の元日は自宅待機であった。落ち着かない気持ちの中で正月を迎えた。いつ連絡が来るかわからないので、初日の出を拝みに行くこともできなかった。

 というようなことがあり、十五年前のことはそれなりに覚えている。それからあんなことがあり、こんなことがあって、十五年経った。それなりに思い出すことのできる十五年間である。十五年という長さを実感することができる。

 偶然というのは、わたしの人生、このさき十五年くらいだろうと予想されること。つまり、残されているのは、思い出す十五年と同等程度の時間だということ。長いのか、短いのかはわからない。が、十五年前がそう遠い昔のことではないので、この先十五年もあまり長いものではなさそうだ。

 そんなことを考えると、どうも面白くない。