進む時計

 進む傾向のある時計がある。もっとも時計のほとんどは進む傾向にあるそうだ。遅れに対する許容値と進みに対する許容値では後者のほうが値が大きいと聞いたことがある。

 進んでいるぶんには、進んでいることに気がつかなくても、さほど支障がない。ちょっと早すぎて待つくらいのことで済む。

 ところが、遅れているのにそれに気がつかないと大変なことになることがある。電車やバスに乗り遅れる。入場時間、開演時間に遅れ、入れなかったり見逃してしまったりする。

 とうわけで、誤差の許容値も違っている、といったようなことを聞いたことがある。

 わたしの部屋には時計が三つある。机上にひとつ。寝た状態で見える壁にひとつ、そして目覚ましがひとつ。この壁掛けと目覚ましが徐々に進み、いまでは十分ほど進んでしまった。少しだけ進んだときに時間を正せば良かったのだが、十分も進んでしまうとなかなか合わせるのが難しくなってしまう。

 誤差が多いほど、早く正確な時間にもどすべきなのだろうが、どっこいそうはいかない。徐々に進んできたので、生活もそのペースになっている。たとえば、あさ目覚ましが七時に鳴っているとすれば、それは正しくは七時十分前である。そして、七時十分前に起きる。それで生活のペースができているから、正確な時刻で八時に家を出て、八時半の電車に乗ることができる。起きてから家を出るまで一時間と十分あることになる。

 時計を合わせてしまうと、起きるのは七時。家を出るまでにはちょうど一時間。それまでより十分短縮され、慌ただしくなってしまう。

 それなら、目覚ましの設定を七時十分前に変えれば良いじゃないか、と思われるかもしれないが、そう簡単にはいかない。七時十分前に起きるのは意外にむずかしい。進んだ時間の七時はあくまでも七時である。正しい時刻の七時十分前ではない。七時に起きるのと七時十分前に起きるのとでは気分は異なる。心構えも変わってくる。

 実際に時刻は同じなのに、感覚的にはきっちり十分の違いがある。不思議だ。

 というわけで、時計は進んだままである。進み具合はますます増すであろう。どのあたり見切りをつけ、気分を改めるか。難しい判断だ。