八百長

 相撲の八百長発覚がトップニュースとして取り上げられている。

 なにごとも正々堂々を旨とすべきで八百長はよろしくないが、かといって、大相撲の現実がはたしてそれほどに目くじらを立てるような問題なのだろうか。

 プロレスの八百長は良くて、相撲の八百長が良くないのは、どこに違いがあるのだろうか。

 相撲は国技であるゆえ、相撲取りには品格が求められる。八百長はその品格を著しく損なう行為である。というのが理屈のようだ。

 相撲は果たして国技なのだろうか。まあ、日本独特、世界で唯一の行いであることは確かであろう。これをもって国技というならば、それでもよい。だからといって、日本を象徴するものではないだろうが。

 国技だからといって品格が求められるものではない。歌舞伎などと同じようにもともとは大衆芸能から発したものだ。時代に連れ、そこに色々な様式が加わり、かたちが決まってきたものであろう。この生い立ちと品格とはまったく関係がない。

 八百長についてはずっと前から噂されていた。八百長があると思っていた人も少なくないだろう。あって悪いと思っていたひとも多くはないのかもしれない。

 よく言われるように、千秋楽の七勝七敗の力士への勝ち星献上は大いにあり得ることだろう。依頼がある場合もあるだろうし、だまって譲る場合もあろう。むしろ、負けてやるのが暗黙のしきたりであったりもするのではなかろうか。ここで負けてやるのは、江戸しぐさ的な相手への思いやりであったりもする。情け容赦ない勝ち星よりも上等と言えるかもしれない。

 満身創痍になりながらなんとか七勝七敗にこぎ着けた力士を千秋楽でたたきのめしてしまう。これはどう思われるだろうか。八百長で負けてやるほうが指示される行為であったりはしないだろうか。

 この八百長問題がここまで大々的に取り上げられるのはなぜだろうか。別の、もっともっと重要で、それでいて世間で取り沙汰されては困るようなことが起こっているのではないだろうか。それを隠すために八百長問題を必要以上に取り上げている。そんなことがなければよいのだが。