拷問の極意

 休み明けの朝。いつになく気が重い。駅を目指す足取りも重い。いやな仕事が待ち受けているわけではない。ほかにいやなことがあるわけでもない。なのにかなり気が重い。

 もしかしたら、昨日の過ごしかたが意外に良かったからなのかもしれない。とくに意識してはいなかったが、昨日は隠居的な一日だったのかもしれない。

 予約制の通院だったので朝早く家を出て、その分早く終わり九時には自由になっていた。そのまま、気の向くままに朝の繁華街を徘徊し、正午には帰宅。昼食、昼寝のあと、積み残しになっていた週の課題を消化。夜になって毎日の日課を消化。そして読書、就寝。

 隠居すれば作業が特定の日(今の休日)に集中することもないだろうから週の課題というのは軽減されるはず。これが創作的なことと入れ替われば、理想に近い隠居の一日となるのかも。

 そういう日を過ごしてしまったのだ。なので、その翌日であるきょうが辛かったのかもしれない。

 ということで思い出したのが、ナチスなどにおける拷問の極意。自白を促すための拷問は厳しければ効果があるというものではない。では、どうするか。

 まず、最初は徹底的に厳しく責める。が、極めて意志強固な受刑者(というのだろうか)は口を閉ざしたまま拒否を続ける。

 ここで取る手段がポイント。責めのレベルを上げるわけではない。弱みに付け込んだりもしない。実は、ここで一転して天国を体験させるのだ。とりあえず病院へ運び入院させる。といっても怪しいことは何もない。純粋に手厚い看護を施すのだ。拷問の傷を癒し、衰弱した体力を回復し、そして精神の穏やかさを取り戻す。

 さて、その後が問題。どっぷりと天国に浸っている患者を、ふたたび受刑者の身に戻し、拷問を再開するのだ。なんとまあ残酷な。

 するとどうなるか。一度天国を味わい、それが日常となってしまったあとの耐力は極端に減少し、あっけなく口を割るそうな。一度警戒心なり、忍耐力を緩めてしまうと元へは戻り難いのだ。さもありなむ。

 何でこんな話を持ち出したかというと、それはわが身にも覚えがあるから。

 一昨日までの四連勤が最初の拷問、きのうが天国、そしてきょうから拷問復活。というのが短期的なところだが、もっと長い目で見ても同じことが言える。

 最初の拷問は学校を出てから三十数年に渡る勤め人生活。そのあとの天国は束の間の隠居生活。そして、拷問復活がいまの復職状態。今の仕事は過去に比べれば相当に軽い。それなのに非常な重苦しさを感じている。それは、天国を味わった後の拷問復活だから。

 そう考えると、いまの苦の世界にかなり説明がつく。説明がついたところでどうしようもないのだが。早く白状して楽になりたい。

 でもまだ、↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓


  ♪♪♪♪ 隠居開始まであと 139 日 ♪♪♪♪